>> 第一回 清水診療所/今村 陽一

 随筆リレー第二回   こしの医院/高橋 雅彦

出会い、別れ、そして……
我々親子がその人に出会ったのはひょんなことからであった。小学1年生になる長男が今後学業を学んでいくうえで集中力向上が必要と思い、テレビ番組ですすめていた将棋を習えるところがないか探していたところ、福井駅東の有名な碁会所で将棋教室があると聞き、10月のある日に訪ねた。子供教室のためかなりざわざわした雰囲気の中で、銀が横に動けないことも知らない長男が果たしてやっていけるのか親としては非常に心配であった。しかしその中で周りの子供たちから「こんなことも知らないのか」とばかにされていた長男に駒のひとつひとつの動きを丁寧に何度も教えていたのがこの教室の師範である田中保六段であった(最後の真剣師としてアマ将棋界では伝説の小池重明とほぼ同時期に全国アマ名人となり、また大学生の時から大学タイトルその後アマの全国タイトルを何度も獲得し全国に名前を轟かせたトップアマと知ったのはかなり後のことです)。その後この将棋教室に週2回通うことになるのだが、当時は本当に続けていけるのかとかなり不安なだった。

当時まだ小学1年生の長男はその後将棋教室のない日も学校から帰ってくるといつも将棋という状態になった。クリスマスプレゼントは足つきの将棋盤がほしいと言い、夜遅くひとりで部屋で何をやっているのかと思えば壁に向かって将棋盤を置き、一人二役で将棋をやっているのである。「こいつはおかしくなったのか」。妻と首をかしげながら見守ったものである。将棋教室では行く度にあくまで教室の認定ではあるが、こども同士の対局で連日昇級していくようになり、「本当にそんなに早くつよくなるものなの?いい加減な感じだな。」といぶかる私をよそに小学1年生の1月を過ぎると夕方4時から9時まで弁当を持って週2回通うようになっていた。夜迎えに行くと先生へお礼を言うものの「さようなら」と先生はいつも言葉少なく、壁にむかって一人で将棋していることを心配して相談しても、いつもニコニコしているだけであった。

一年上の先輩に誘われる形で小学2年生の6月に文部科学大臣杯将棋団体戦の県予選に長男が出場した。初めての大会なのに団体戦のためなのか緊張することなく、いきなり優勝し全国大会出場となった。父親であり、また将棋が全くわからない私はかなり勘違いしてしまった。「意外と才能あるのかな。」 しかし同年7月に初めて滋賀県長浜市の大人の一般大会のC級クラスに連れていったが、全敗。帰りの車の中で試合に集中していないと半ば八つ当たりのように私に怒られ、しょげかえっていた長男は、そんなときもすぐに田中先生のところに行き、ニコニコしながら負けた理由を詳しく教えてくれる先生の優しさに触れ、以後もやめることなく将棋を続けていくことになったようだ。後に長男に聞いたことだが、大人の大会に連れていかれるのはあまりうれしくなかったようで田中先生が好きでなかったら将棋は続けていけなかったようである。

そんな長男にも転機がやってきた。小学2年生の9月のJT杯小学生将棋北陸大会の低学年部門で準優勝したことだ。決勝はプロ棋士の対局前にプロと同じ将棋の駒、将棋盤を使って、出場する子供は袴に着替えて100人前後のお客さんの前で、プロ棋士の解説のもと行う非常に大きな大会である。たまたま勝ち上がったと思われるが、決勝まで残ったことが非常に大きな自信となったようだ。このころから田中先生の指導も厳しくなってきたようで「次は絶対優勝しなさい」とハッパをかけられるようになっていった。以後大会の成績も伸び、一般大会はC級県大会も準優勝、倉敷王将戦全国大会でも個人13位と結果が残るようになっていった。

ところが長男が小学3年生の5月も終わりになると将棋教室で先生が休むようになった。「体調壊したのかな」と妻と話していると、教室の関係者の方から医師である私に実はかなり悪い状態であると、相談の話しがあった。病状の詳細をお聞きし、何の力にもなれない私は、長男にもどう説明してよいのか言葉につまってしまった。たまたま6月は昨年準優勝に終わったJT杯小学生将棋北陸大会がまじかに迫っていたため、長男には「絶対優勝して、先生のお見舞いに行くぞ」と話した。長男の思いが通じたのか、先生にハッパをかけられたこのJT杯で見事優勝し、家族みんなで晴れて先生の病室にお見舞いに行った。医師である私は病室での先生の表情、治療内容からかなり病状は悪いと思ったが、先生は長男の優勝報告をそれはそれはうれしそうに喜んでくれ、先生の奥様に優勝盾をはさんで長男と先生の記念写真を撮ってもらっていた。

本当に現実は悲しいものでこれが長男と先生の最後の出会いとなった。その後先生は亡くなられ、お通夜など一回も行ったことはない長男は初めて行ったお通夜が大好きな先生であり、まだ当時9歳の長男は亡くなった先生の顔をのぞきこんで最後の別れをしていた。
このときになって初めて先生の奥様から聞かされた話しだが、日ごろは私が長男の将棋大会の結果を報告しても関心を示していない様子の先生だったが、新聞に教え子の成績が載ると自分自身で切り抜き、セカンドバックにいつも入れて持ち歩いていたそうだ。
その後長男は先生の話しをほとんどしなくなった。

もう将棋はしなくなるのかと思ったが、長男は長男なりにその後も努力は続けたようで、私も福井県内、あるいは県外の指導者を何人か訪ねながら、将棋の指導を受けられるように環境を整えていった。現在はプロの将棋界では東の所司和晴(渡辺明竜王の師匠として有名)、西の森信雄として、お弟子さんの数でも両雄として非常に有名な関西の森信雄先生の将棋教室に不定期に通っている。縁は不思議なものでこの森先生は学生時代に田中先生と一緒に将棋研究会を作って一緒に切磋琢磨していたらしく、田中先生が亡くなられたことを非常にびっくりされていた。父親としては森先生に巡り合えたのは田中先生の不思議な力があったのかなと感じてしまった。

小学4年生になる長男は現在まで将棋を続け、福井県将棋連盟から3段の認定を受けた。今でも田中先生の将棋がかっこ良かったと言い、同じ棋風の将棋を好んでやっているようだ。今年に入って一般大会のA級に出場し、初めて福井地区代表に選ばれる決定戦に進んだ。地区代表となり、県大会で勝ち上がれば、福井県のアマ大会のタイトル戦に選ばれる。相手は一才上だが、今まで大会では勝ったことがなく、亡き田中先生が超えなければいけない目標としていつも話されていた因縁の相手(強豪)である。後から聞いた話しであるが中盤までギリギリのしのぎ合い中で、どうしても勝ちたい長男は心のなかで「田中先生、僕を応援して」と叫んでいたようだ。終盤まで丁寧な指しまわしでペースをつかんでいった長男は、「先生のためにも早くあの子に勝てるようにならないとだめだ」といつも叱っていた私に、勝利の瞬間顔をむけて微笑んでいた。天国の先生も長男の思いにはさぞ喜んでいることだろう。

私にも恩師はいる。不思議なもので40代半ばになってその存在の大切さに初めて気付くものだ。部下として一緒に働いていた時には、気付かなかったが、こしの医院開始当初、行く末を心配して御夫婦で何度も当院を訪ねていただき、また雑誌等でエールもいただいた。身近なときにはそのありがたさに気付かない情けない自分がいる。

目標の相手に初めて勝った試合の帰りの車の中で、どちらかと言えば口下手な長男が突然言った。
「これでやっと田中先生のお墓参りにいけるね。」
長男の成長と将棋との出会いへの感謝に、私には何かこみ上げてくるものがあった。